single.php

2014 5/28 08:54 更新

生きるとは 他の「いのち」を奪うこと。

カテゴリ

Facebook上でつながっているTさんの今朝の書き込み。
非常に共感できる内容なので、こちらでもシェアします。

===

生きるとは、他の「いのち」を奪うこと。

来月公開予定の映画『リトル・フォレスト』のワンシーンです。

東北食べる通信3月号で特集した南三陸の漁師、千葉拓くんもまったく同じことを言っていました。

最近、牛、豚、羊、馬、鶏など、食肉の現場を取材する機会が多いんですが、昨日、生まれて初めて、生き物を屠殺するところを見ました。足から逆さ吊りされた地鶏。それが逆さまになったベルトコンベアーみたいな機械で順番に運ばれてきます。悲鳴をあげる鶏の喉元を一羽、一羽、ナイフで切っていく人間。帽子とマスク、エプロンは、飛び散った血でまっ赤に染まっていました。

目を背けたくなりましたが、目を見開きました。いつも食べてるものが、こうして命を奪われ、切り刻まれ、口の中に入っているんだと知りました。かつて、屠殺は家畜を飼っている家庭では日常的なことでした。それが、都市化と分業化に伴い、肉屋、そして食肉工場へと移り変わっていきました。その後、屠殺を仕事にする人が差別を被るなどの社会問題もあり、タブーの世界とされてきました。

原発や基地の問題にどこか似てると思いました。電気や平和の恩恵に預かりながら、その現場で生きる人々の苦しみや悲しみに思いを馳せることができない。できることなら見て見ぬふりをしたい。肉を食べるということも同じだなぁと思いました。そこには、みんなやりたくないことを引き受けている誰かががいる。その上で成り立っている。それを知って食べるのと、知らないで食べるとの間には、決定的な違いがあると感じました。

岩手県のある自然体験学校にこんな話があります。一週間のキャンプに訪れた子どもたちに鶏の世話をさせます。名前をつけてかわいがる子もいました。最終日前夜、その鶏をみんなで屠殺し、カレーの具にしてテーブルに座る。子どもたちの口から出てきたのは「いただきます」ではなく、「ありがとうございます」だった。こうした命を学ぶ教育には賛否両論あるようですが、僕は賛成です。

南三陸の漁師、千葉拓くんは子どものころ、魚を食べることは魚の命を奪うことという事実を突きつけられ、頭が狂いそうになったと言います。そんなことをするくらいだったらもう食べなくていい、と。しかし、食べないと生きていけない。そうして、それが生きることだと彼は学んでいきます。他の生き物の命で自分の命を生かしている。だから、感謝して食べる。そして、その生き物の分まで生きる。

おいしいとかおいしくないとか、高いとか安いとか、僕らは日頃、そんなことばかり考えています。しかし、それ以前に、食べるという営みにはどんな意味があるのか。食べものの裏側を知り、考え、その上で食べる。

生き方、そして未来がきっと変わるんじゃないでしょうか。

====

仲良くしていたカメラマンが、昔 会社案内の撮影か何かで、
足から逆さ吊りされた鶏が、逆さまになってベルトコンベアーで次々と運ばれてくる…
まさに同じように状況に遭遇した話しを聞き
今でも強く印象に残っています。

それが良いか 悪いか と言うより
今食べているものが そういう環境の上に成り立っているということが大事なんですよね。

これは「食・人」関連の中で
随分前に話題に上がったドキュメンタリー映画『いのちの食べ方』。
食べ物の大規模・大量生産の現場を淡々と描いています。
ナレーションやインタビュー、BGMは一切なし。
生産現場で働く人々が映し出されています。

私、DVDを購入しましたので
ご覧になりたい方は是非。

コメント

この記事のタグ

トップへ戻る